「ウリハッキョ」自主上映・日本公式ブログ

「ウリハッキョ」ー北海道朝鮮初中高級学校での日常を描いたキン・ミョンジュン監督のドキュメンタリー映画(2006年釜山国際映画祭雲波賞受賞作品)の日本自主上映・公式ブログです。

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ウリハッキョの先生を紹介しますー連載(4)パク・ユサ先生

パクユサ先生1


パク・ユサ先生

映画「ウリハッキョ」でサッカーの監督だったパク・ユサ先生。

しかしもともと、パク・ユサ先生は東京朝鮮中高級学校出身の
ボクシングの選手だったという。
朝高時代はボクシングで中央体育大会銀メダルまで受賞した
パク・ユサ先生がサッカー部の監督だというのは、
おかしなことではある。

パク・ユサ先生がウリハッキョに赴任した時、
その時までサッカー部の監督だった人が急に辞めることになり、
慌しくサッカー部監督を引き受けざるを得なかったという話である。
(正確な内容ではないが…)

サッカー部監督になったパク・ユサ先生は、
その時からサッカーに情熱を燃やすようになったという。
独学でサッカー理論、実技などを学ばなければならない立場ではあったが、
彼の情熱はずっとサッカーをやり続けてきた人たちに
負けないくらい素晴らしいものだった。

ついには日本サッカー協会の審判資格証を得るまでになった、
彼のサッカーに対する理解と情熱は大変なものだ。
だから、コーチだった藤代先生も、パク・ユサ監督を
尊敬してやまないと言う。


サッカーについての戦術や実践に対する弱点を、
パク・ユサ先生は試合と練習に臨む姿勢、
在日朝鮮人のサッカー選手として持たなければならない姿勢など、
精神的な側面を通じて子どもたちを訓練し、チームを率いてきた。

初めてサッカー部を受け持つことになったころ、
子どもたちの間でも、ボクシングをしていた先生が
なぜサッカー部の監督をやるのかという不満が多かったという。
しかし、パク・ユサ先生は、そんな子どもたちの不満を
自身の情熱と生き方に対する姿勢を通じて目覚めさせ、
最終的にはウリハッキョの男の子たちが「一番なりたい男性像」に
選ぶ人物にまでなった。

パク・ユサ先生は僕と同い年だ。
初めてウリハッキョに行った時、
30代の先生があまりいないことに驚き、
ほとんどが僕より年下の先生ばかりだったことにも驚いたのだが、
パク・ユサ先生と同い年だということが分かって本当にうれしかった。
しかし年齢が同じだけで、
精神的な面では僕はパク・ユサ先生に及びもつかない。

実際、軍隊に行かない在日朝鮮人男性たち、特に教師たちの場合は、
20代の初めに社会に出て経済生活をしなければならず、
20代中盤になると、学校内では結構経験を積んだ方の教師になってしまう。
この学校の教師たちが、年齢的には若くても成熟した顔立ちをしているのは、
むしろ当然のことと言わなければならないだろう。

パク・ユサ先生の場合、僕と出会った時点で
既に10年目の教師であり、学校の男性教員の中で
30代としては最高の年数を誇っている人であった。
僕はパク・ユサ先生と話をしていると、
同い年という感覚よりは、なぜか先輩という感覚の方が強かった記憶がある。

パクユサ先生2



(写真:映画撮影中は、パク・ユサ、藤代、キム・ミョンジュンが並んで教務室に座っていた。机が隣り合っているので互いに話し合う時間も多かった。)

最近、枝川のウリハッキョ(東京第2初級学校)のことが
韓国人の関心を集めている。SBSスペシャルで東京第2初級学校のことが
放送されて以来、学校を救おうという韓国人の声が高まっている。

北海道のウリハッキョにも枝川の民族学校の関係者がいるが、
パク・ユサ、チョン・キョンラン夫妻はその枝川民族学校の卒業生だった。
(映画の中で、寄宿舎で結婚式を挙げたあの二人…)

枝川民族学校の卒業生は、
他の朝鮮学校の出身者より学校に対する
誇りと自負心が特に強いという。

かつての植民地時代から、日本の差別経済に押されて
貧しく困難な生活をしていた同胞たちが集まって街を作ったという
枝川地域の同胞の愛が詰まったところ。

在日同胞の映画の中に「学校」というタイトルの
ドキュメンタリー映画があるが
(今回のSBSスペシャルの昔の白黒画面が「学校」の場面だった)、
この映画の背景になった場所もまさしくここ枝川だった。

同胞はゴミを拾い、ぼろを集めて生計を立てていたが、
そんな悲惨な生活をしながらも、
枝川民族学校は変わることなく維持されてきたという。
この地域の卒業生であれば、本当に大きな誇りを
持つのは当然だと思う。

北海道のウリハッキョの男性の先生方に、
北海道でずっと教員生活をするつもりかと聞いた時、
あまりはっきりとした答えは返ってこなかった。
いつかはそれぞれの両親の元に帰らなければならないのだが、
北海道地域の同胞は、誰もがそうであるように
男性教員であれ女性教員であれ、ウリハッキョで結婚し、子供を産んで、
ずっと北海道に残ってくれることを望むからだ。

しかし、パク・ユサ先生だけは違った。
自分はいつかは必ず枝川がある東京に戻ると言っていた。
そこに帰り、学校を守るという役目を自分も果たさなければならないと…。
そんな風に自信を持って語る様子が、僕にはむしろ気持ちよかった。

そんな学校に対する愛情のためだろうか?
パク・ユサ先生とチョン・ギョンラン先生は、東京第2初級学校を
一度も一緒に通ったことがないのに(7年?の年齢差があるという)
先輩後輩として心が通じ合い、結婚することになった。

チョン・ギョンラン先生は最初、ウリハッキョに英語の教師として赴任してきた。
僕が初めてウリハッキョを訪問した時は既に教員を辞め、
社会人生活をしており、通信会社で重要な仕事に就いていたという。
英語と朝鮮語が出来るので、そのようになったのだと
チョン・ギョンラン先生本人は言っていたが、
それだけ頭のよい秀才だったのではないだろうか?

映画では、パク・ユサ先生がユンテク、サンユと一緒に
寄宿舎の舎監室でマンガ本を見る場面がある。
映画に入れなかったけれども、そこで僕がユンテクとサンユに
チョン・ギョンラン先生を覚えているかと聞いたみたところ、
ユンテクが言うには「しずかちゃん」というニックネームで覚えていた。
とても静かな先生だったという意味だ。

ウリハッキョのサッカー部監督だったパク・ユサ先生。
しかしパク・ユサ先生は、寄宿舎の舎監先生でもあった。
結婚前の独身時代だけでなく、結婚した後も寄宿舎の舎監を続けた。
舎監主任だったキム・ガプリョル先生を除いて、
舎監先生はすべて独身だったのに、
パク・ユサ先生が舎監を続けたことで
奥さんのいる舎監がもう一人増えることになった。

舎監は24時間子どもたちと一緒にいなければならないので、
寄宿舎を出て新婚生活をしていたパク・ユサ先生は
早朝から学校に来て朝食を子どもたちと一緒に食べ、
夕食もまた子どもたちと一緒に取った。
だから舎監をしながらちゃんとした新婚の雰囲気を
整えることができるわけがなかった。
それでも、チョン・ギョンラン先生がもともと
舎監をしていた人だったので、互いに理解していたという。

パク・ユサ先生は、
ウリハッキョの子どもたちが一番怖がる先生でもあった。

他の先生の授業時間とは違い、
パク・ユサ先生の現代史の授業時間になると
子どもたちがきりりと緊張するのが分かった。

ボクシング選手だった経歴のせいか?
なぜそんなに怖がるのか聞いてみたが、
子どもたちの答えは、怖いというよりは
ただ緊張するというのだ。

サッカー部の子どもたちがクラブの時間に会うパク・ユサ監督が、
授業のために教室に入ってくると、学級の男子の大部分がサッカ
ー部員なので「学習もクラブも模範になろう」というスローガン
をいつも叫んでいるサッカー部の子どもたちは、「一生懸命勉強
するふり」をせざるを得ないのだそうだ。
サッカーの実力よりも生活の中の誠実さを大切に思うパク・ユサ
教員の哲学のためであると言えるだろう。

その前の時間まで笑って騒いでいた男の子たちが
パク・ユサ先生の授業では急に緊張百倍の雰囲気になってしまうので、
女の子たちは面食らいながらもそんな雰囲気に合わせているのだという。

パクユサ先生3



(写真:クラブの時間は怖いけど、寄宿舎の舎監に戻れば子どもたちのお兄さんになるパク・ユサ先生。21期寄宿舎生たちがリョシルとスネの誕生日パーティーを開いているところだ。)

しかし、パク・ユサ先生は
サッカー部の練習を終えて舎監先生に戻れば
子どもたちのお兄さんのような存在になる。

特に初級部のユンテクとサンユを舎監室に呼んで一緒に寝ている様子は、
彼の暖かい心をうかがい知ることのできる場面だった。

だから、映画の撮影がほとんど終わり
子どもたちのインタビューを撮っている時、
子どもたちに聞いてみた。
パク・ユサ先生のそんな暖かい内面について…。

しかし、返ってきた子どもたちの答えは意外だった。
「パク・ユサ先生は、お化けと暗い場所をとても怖がるんです。
パク・ユサ先生が子どもたちと一緒に寝たがるのは、本当は一人で
寝るのが怖いからなんですよ。」

くすくす。本当にかわいいパク・ユサ先生であった。
怖くて子どもたちと一緒に寝るなんて…。
この文を読むパク・ユサ先生はとても怒るかもしれない。
映画ではとても魅力的な先生として映っているのに。ハハ。

しかし、それがすべてではない。

パク・ユサ先生は、
学校のバスを運転することのできる大型バス運転免許を取得した。
だから子どもたちが寄宿舎旅行に行く時や、サッカー部の子どもたちが
船に乗って本州に遠征に行く時、パク・ユサ先生は
「アボジ号」(学校バスをこう呼んでいる)を自ら運転して行く。

大勢の子どもたちが遠征に行ったり寄宿舎旅行に行く場合、
ひときわ高い日本の交通費を考えれば、パク・ユサ先生が
バスを運転するのがお金を節約するいい方法になる。
学校のバスをいつも運転してくれているおじさんが、
東京や大阪までの遠征についていくのは無理があるからだ。

僕も北海道からフェリーに乗って海を渡り、
本州に降りて東京を経て埼玉まで行く子どもたちの
中央体育大会への道のりを、一緒に行ったことがある。

学校からアボジ号を運転し、港でアボジ号を船に載せ、
サッカー部員たちが一晩を船で過ごすと翌日には東京の近くに着く。
船がアボジ号を吐き出すと、パク・ユサ監督がバスを運転し、
3時間ほどかかる埼玉まで移動するのであった。

子どもたちの様子を見て、作戦を構想し、試合の戦略を
練らなければならない監督が、バスを運転するのに
そのすべての時間を投じている。

ウリハッキョが日本政府の支援を受ける学校だったら、
学校財政が豊かで子どもたちのサッカー遠征に
飛行機に乗って行けたら、
たぶん北海道ウリハッキョのサッカー部の実力は
もう少し向上していることだろう。

しかしこれは北海道ウリハッキョだけの問題ではなく、
すべての朝鮮学校に等しくふりかかっている問題なので、
パク・ユサ先生も、それを見守る僕も、そして
そのバスに乗っているサッカー部の子どもたちも
何の不満もない。

パク・ユサ先生とチョン・ギョンラン先生はもう、
北海道のウリハッキョにはいない。

おととし、生まれ育った東京に戻った。
東京に戻ったパク・ユサ先生は現在、
民族教育の聖地とも呼ばれる東京朝鮮中高級学校で、
サッカー部のコーチとして活躍している。

時々、パク・ユサ先生からメールが来る。
映画を見て、韓国人がウリハッキョについてどんな風に思うのか、
ウリハッキョの先生についてどんな風に感じるのか、
とても気になると言う。

在日朝鮮人の中には、自分が卒業した母校が
既にこの世にないという人も多い。
生徒数が急激に減り、学校財政がだんだん困難になって、
統廃合や廃校により自分の母校を失ってしまうのだ。
同胞たちの心のふるさとであるウリハッキョがなくなってしまった時、
彼らの心はどうなるのか?

東京朝鮮第2初級学校が裁判で勝ったそうだ。

いつだったかサッカーの遠征の時、パク・ユサ先生が
バスを運転して枝川の母校を見せてくれたことがある。
その隣にある、パク・ユサ先生のお母さんが営んでいる
もんじゃ(東京風のお好み焼き)のお店に子どもたちみんなを連れて、
もんじゃを食べさせてくれたことが思い出される。

夜遅くにバスを降りて見た東京第2初級学校は、本当に小さな学校だった。
自分が通っていたころも今も、変わりのない様子だと言っていたが、
当時も今のように、雨が降れば雨漏りし、
風が吹けば窓が揺れるような学校だったという。

パク・ユサ先生は東京に帰ったが、
それでも彼は母校を失った在日朝鮮人ではない。
そして今や、永遠に自身の母校を守ることのできる権利も生まれた。
裁判当時、学校がなくなるのではないかと戦々恐々心配していた彼の顔は、
少しは明るくなっただろうか?

次に東京に行く時は、ぜひパク・ユサ先生に会いたい。(2007/5/9)

※この記事の翻訳は連載(3)キム・ガプリョル先生の記事に続き新潟・びびんば会 金子博昭さんが担当してくださいました。ありがとうございます!!(K)
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